2008/03/28

アメリカ永住権

もう半年以上前のことになりますが、グリーンカード(米国永住権)を取得しました。アメリカで永住権を申請されている、あるいはこれから申請をお考えの方は興味があるかと思いますので、少し過去を振り返りながら、私のケースに付いて書いてみようかと思います。

しかし、永住権取得は長い道のりでした。。

永住権に関して真面目に考えるようになったのは今から4年前でした。当時、会社では永住権申請に掛かる費用までカバーしないと言っていたため、二の足を踏んでいました。しかし、H1ビザが切れるのも時間の問題ですし、日本に帰るアテもありませんから、ボチボチと弁護士探しから始めました。日系の弁護士、ニューヨークの弁護士、ボストンの弁護士、色々聞いてみましたが、結局Worcesterという街に安い弁護士を見付け、その事務所を訪れたのが2004年12月でした。日系の弁護士は7〜9千ドル、ボストンの弁護士も6千ドルと言っていたのに対し、この弁護士はたったの4千ドルでした。

安いので少々不安でしたが、終わってみればナカナカの腕だったと思います。お薦めです。

私がその弁護士事務所を訪れた後、2005年春からPERMが開始されるという発表がありました。このPERMによって第1段階の承認期間が大幅に迅速化され、2ヶ月以内に結果が出るとの発表でした。何とラッキーなことかと当初は思ったものです。

ただ、弁護士が言うにはPERMが始まると旧方式での申請ができなくなるので、その前に”念のため”ダミーでいいから古い方式で申請をしておこうと言ってきました。そして、旧方式が終了するその日に駆け込みで申請を行いました。。今思えば、これによって私はその1年後に救われることになるわけです。

H1ビザは6年で切れます。それ以降は永住権を申請している場合のみ延長が可能となります。但し、それには、永住権を申請して1年以上経っている場合のみ、という制限が付きます。つまり、H1ビザ6年目を迎える前に永住権を申請しておかないと延長できなくなるわけです。

当時の私はそんなことまで考えませんでした。PERMが2ヶ月で処理されるのであれば、1年後のことまで考えて、わざわざ旧方式で申請する必要などないと思えたのです。実際、その時には既にPERMの申請に向けて準備も着々進んでいましたから。。

しかし、その後、事態が急変しとんでもないことになっていきました。2005年4月だったかと思いますが(季節の変わり目は恐いです)、社員全員が集められ大規模なリストラの発表が行われました。これにより約8割の社員が去りました。

このようなリストラが行われると永住権の申請は事実上できなくなります。同職種の人員が解雇されてから半年は申請にケチが付くということで、私の申請はその後長らく凍結されました。。PERMの申請に必要な求人広告やら全て済ませた後でしたので、非常に痛かったです。。会社のリストラは、その年の9月まで続きました。。迅速と言われていたPERMも、申請がロクにできないのでは意味がありません。

私は渡米以来どうもツキに見放されている感がありましたが、ここまでくると呆れ果てて考える気力さえなくなりました。とにかく、何も動けずにただ時間が経つのを待つだけというのは本当に辛いものがありました。しかも1年も。。

ただ、PERM申請の前くらいになって、会社が私の費用を全部もつということになりました。それまでに払い込んでいた弁護士費用も会社からreimburseされ、申請に掛かる諸々の費用など会社が払ってくれました。たまには良いこともあるものだと思ったものです。

結局、私のPERMが申請されたのはその後1年以上経ってからでした。。弁護士と会ってから申請まで、まさか1年5ヶ月も掛かる事態になるとは思いもしませんでした。

私のPERMが申請された後も、承認されるまで4ヶ月掛かりました。PERMなら60日以内と言われていましたが、その倍以上の時間が掛かったわけです。途中でAuditが入ったわけでもないのに、なぜこんなに時間が掛かるのか不思議でした。

ちなみに、申請時に、日本語など言語的なスキルを職の条件に含めると、必ずAuditが入り、審査にかなり時間が掛かるらしいです。私は、言語的なスキルは含めませんでしたが、それでも4ヶ月も掛かったわけですから、今後、申請される方はできるだけ言語を武器にしない方が良いと思います。

私のH1ビザはこの間に6年の満期を迎えました。私のPERMは処理中でしたので、もし旧方式でダミー申請しておかなかったら、私のH1は延長できませんでした。考えてみれば、本当に綱渡りでした。

PERMの申請後、私の会社は再びリストラを行い、結局別の会社に吸収されます。私のH1やPERMの申請中に会社名が変わりました。こんな混乱した状況でちゃんと処理されるのだろうか本当に不安でした。。。

2006年の8月にPERMが承認され、その後、I140、I485などを同時申請してからは不安もだいぶ和らぎました。I485申請の約1ヶ月後には指紋採取に行き、2〜3ヶ月でAdvanced Paroleや労働許可書なども相次いで承認されてきました。順調に処理されている感じがしました。申請から半年も経てば転職も可能になります。

しかし、I140は待てど暮らせど承認されませんでした。私のケースが処理されているのはネブラスカでしたが、ここはどうもテキサスの倍くらい時間が掛かっているようでした。不思議です。私のPERMが処理されたのもアトランタでしたが、こちらも他よりも時間が掛かっているようで、要するに、私のケースは時間が掛かるところばかりに送られていたわけです。

ただ、世の中には便利なWebサイトがあって、そこを見ると大まかな処理状況が把握できました。自分のケースがいつごろ処理されるか、大まかではありますが想像できましたから、精神的には楽でしたね。

でも、私のケースは複雑でしたから、やはり、全てが承認されるまでは不安でした。

私はH1ビザで働いている頃、会社が潰れたことがあります。この時、別の会社に転職したわけですが、数ヶ月の空白期間がありました。H1ビザは雇用が条件となりますから、会社を失ったら無効となるわけですが、私はその間も米国居住を続け職を探しました。I-94は有効でしたので不法滞在にはなりませんが、ステータス無しという状態で数ヶ月滞在したのは確かです。これが最後に問われはしないか不安でした。

また、PERMを申請した後に会社が吸収合併され、実はその2ヶ月後に再び別の会社と合併し、数ヶ月の間に会社名が2回変わりました。。私のビザはちゃんとトランスファーされているのか、不安でした。

何よりも、ビザの延長をした後に書類を確認すると、満期を迎えた時の日付と延長が開始された時の日付の間にもやはりブランクがあります。その間のステータスはどうなるのだろうか?不安は挙げたらキリがありませんでした。

そして、去年2007年7月だったかと思いますが、とんでもない発表がありました。永住権の承認の数が年間枠を越えたので、その年の承認はもうしない、新しい申請も受け付けない、というものでした。この前代未聞の発表には呆れ返りました。もう待つことには慣れていましたが、それにしても私の運命はどうなっているのだ、と考えても仕方のないことを考えさせられたものです。


その後、I140関連で書類の不備があるというので、足りない書類を提出する由の連絡が来ました。私の会社は吸収合併されましたが、その際のトランスファーが行われたことを示す書類を出せというもので、会社の人事に連絡して書類を出しました。それが8月の初め頃でした。とりあえず、こういう連絡があるということは、私のケースが処理中になったということで、しばらくすれば動きがあるだろうと思われました。

そして、2007年8月の終頃にI140が承認されました。申請は2006年11月でしたので実に9ヶ月掛かったわけです。ただ、これによって転職が可能になりましたから気分は楽になりました。

その後、相次いでI485関連のeメールを受け取り、911テロの6周年記念の前日に全て承認されたことが分かりました。それから1週間ほどで実際のカードが送られて来ました。私の場合はどこかに面接に行く必要はありませんでした。最後だけは、私にしては珍しく順調に処理が進んだように思えました。

これで私はH1ビザという不自由なビザから開放されました。家族も同時に永住権を取得し、私の雇用状況とは関係なく米国滞在を継続することができるようになりました。私のH1ビザは6年以降の延長期間に入っていたため、もし解雇されたらと考えると不安でした。その心配ももうなくなりました。

実は私の永住権申請は2002年頃に一度は行われました。ただ、その会社は今はもうありませんので、全くの無効ではありますが。

とにかく、永住権の取得は数年という時間を要するわけで、その間にも事態はどんどん変化しますから、精神的にも大変です。とにかく、永住権承認のメールを受け取った時の喜びは言葉では表せません。突き抜けるような自由を手にしたような気がしたものです。

人によってはPERMも数週間で承認され、数ヶ月で順調に永住権を手にする方もいらっしゃるかもしれません。でも、運の悪い人は10年くらい掛かっている人がいることも事実です。私の場合は辛くも取得できたので良かったですが、最後の最後になって解雇されたり、あるいは転職もできない状態で雇用者から不当な扱いを受けている方も多いと聞きます。

現在申請中の方、これから申請される方が順調に永住権を手にされることをお祈りします。